届かなかった一点と、ふくらむ季節

開花前の桜の蕾の向こうに、ぼんやりとスタジアムが見える春の風景 横浜FCノート

ベガルタ仙台戦。0という結果は、すぐに知りました。

第2節、敗戦。

けれどその後、速報の中で目に止まったのが「シュート数は相手を上回った」という数字でした。

スタジアムにも行けず、映像も見られない私は、いつもこうして文字と数字から試合を想像しています。

そして今回は、その数字が、ただの数字には思えませんでした。

結果と、速報で知った数字

結果は0-1。

それ以上でも、それ以下でもありません。

負けた、という事実は動きません。

けれど、得点欄の後に並んだ数字に目が止まりました。
シュート数は相手を上回っていた、と書かれていました。

私は映像を見ていません。
だから内容を語ることはできません。

それでも、数字はひとつの輪郭を与えてくれます。

何もできなかった試合ではなかったのかもしれない。
押し込む時間はあったのかもしれない。
少なくとも、前に進もうとする回数は、ゼロではなかった。

もちろん、シュート数が多ければ勝てるわけではありません。
枠に飛ばなければ意味もないし、決まらなければ結果は動きません。

それでも私は、その数字に少しだけ救われました。

同時に、少しだけ悔しくもなりました。

“そこまで行けたのに、入らなかった”という可能性が、
その数字の向こうに見えてしまったからです。

ただの敗戦よりも、わずかに手が届きかけた敗戦のほうが、重い。

選手達は間違いなく結果に手が届くところにいた。

押していた、という感覚

映像を見ていない私に、試合の細かな流れはわかりません。

けれど、文字で追う試合経過や、試合後の数字の並びから、ひとつだけ想像できることがありました。

攻める時間は、あったのではないか。

シュートの本数。
ゴール前でのプレーの回数。

それらは少なくとも、守るだけの試合ではなかったことを示しています。

もちろん、これは想像です。

押していた、と言い切ることもできません。

それでも、「何もできなかった」という敗戦ではなかったのではないか。

その可能性が、悔しさを少しだけ複雑にします。

もし前に進む場面があったのなら。もしゴールに近づく瞬間があったのなら。

それが入らなかった、という事実は、ただの0よりも、少しだけ重い。

数字の向こうに、届きかけた何かを想像してしまう。

私は映像を見ていないのに、そこだけは、妙に鮮明に浮かんでしまいました。

期待したからこそ、悔しい

正直に言って、悔しいです。

第1節を終え、前の記事で私は少しだけ期待の話を書きました。
ロッカーの42秒の向こうに、わずかな熱を感じた、と。

断定はしませんでした。
大きな言葉も使いませんでした。

もし最初から何も期待していなければ、「まだ始まったばかり」で済んだのかもしれません。

けれど今回は違いました。

シュート数という数字を見たとき、私はどこかで思ってしまったのです。

“いけたのではないか”と。

その思いがある限り、悔しさは消えません。

怒りではありません。
誰かを責めたいわけでもありません。

ただ、期待してしまった自分がいる。

その分だけ、0という結果が重くなる。

私は、この悔しさを否定したくありません。

期待がなければ、悔しさも生まれないからです。

入らなかった一点の重さ

私は、その決定的な瞬間を見ていません。

キーパーの指先だったのか。
ディフェンダーの足先だったのか。
それとも、ほんのわずかなコースのずれだったのか。

それを語ることは、私にはできません。

けれど、数字が示しているのは、“打った”という事実です。

ゴールを目指した回数があったということ。
届くかもしれない瞬間が、何度かあったということ。

そのどれか一つが、もし入っていたなら。

試合は変わっていたかもしれない。
空気も、評価も、今の気持ちも。

私はその場面を知らない。
だから具体的な悔しさは語れません。

けれど、“入らなかった”という結果だけは知っています。

それは、何も起きなかった0ではなく、起きかけた何かが、最後に届かなかった0なのではないか。

そう思うからこそ、重い。

熱は空回りだったのか。
それとも、まだ途中なのか。

私はまだ判断できません。

けれど、少なくとも今は、この0を、簡単に片づけることはできません。

期待したからこそ悔しい。

春は、そう遠くない気がします。

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